日々彷徨
興味を引かれるものにふらふらと吸い寄せられながらウン十年。 過去と現在に出会った物を記録しようじゃないか。 海外ミステリの話が多くなると思うんだけど予断は許さない。
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棟居刑事の黙示録
森村誠一の本を30年ぶりに読んだ。淡々としたストーリ展開。シリーズ物ということだが、主人公も今回は一休みというところか。



棟居刑事の黙示録
  • 著:森村誠一
  • 出版社:双葉社
  • 定価:580円
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棟居刑事の黙示録

森村誠一
双葉社(2007)

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森村誠一が「人間の証明」で角川映画ブームにのって大ヒットを巻き起こしてから30年になる。その後も、証明シリーズ、「悪魔の飽食」シリーズ、最近では映画「蒼き狼 地果て海尽きるまで」の原作など、コンスタンスに活動を続けている。私は「人間の証明」ブームの頃にいくつか作品を読んでからこのかた、全く彼の作品を読んでいない。実に30年ぶり。タイトルになっている棟居刑事というのが「人間の証明」に出てくる刑事であり、その後シリーズ化されているということも知らなかった。

さて、この作品。タイトルは「棟居刑事の黙示録」であるが、棟居刑事の、は単に棟居刑事シリーズであるというのを示す枕詞のようなもので、黙示録にはかかっていない。内容的にもはっきり言って刑事は誰でもよく、影が薄い。普通シリーズ物であればもう少し主役の心情や周辺を描いて、シリーズのファンをくすぐるものだが、ある意味潔いほどそういったものが見当たらない。最後の部分にちょっととってつけたようにあるくらいか。この物語では元暴力団組長の九鬼という男が主役である。昔は泣く子も黙る狂犬が今ではすっかり落ち着いているが、ふとしたことで知り合った少女に危機が訪れる、となると大体展開は読めそうなものだが、そういう意味では期待を裏切らない。

「人間の証明」というのはなんだかよくわからない小説であったが、唯一、人間の証明で棟居刑事を演じた松田優作のイメージだけが残っている。そのイメージで棟居刑事はその後どうなったのだろうと思っていたが、この小説では上述の通りただの脇役。まあ、ほかの作品ではもっと活躍してるのだろうが、かといって今のところわざわざ読む気にもならない。

初出は1998年らしい。

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このエントリーは書評ポータル「本が好き!」から頂いた本の書評です。




ドリームガールズ
ドリームガールズ
監督:ビル・コンドン
ジェイミー・フォックス、ビヨンセ・ノウルズ、エディ・マーフィー、ジェニファー・ハドソン
Dream Girls(2006)
Bill Condon
公式サイト

女性3人グループがマネージャのカーティスによりスターになっていく過程を描く。カーティスは彼女たちとの出会いの時から欺瞞に満ちている。コーラスグループを探しているスター、ジェームズにあてがい、自らを売り込むのにちょうどいいと見るや、策を弄して彼女たちのマネージャにおさまる。うまくジェームズに取り入って彼の毒気を抜いて幅広く売り出そうとするが、彼が思うとおりに動かずうまくいかないと見るや、今度はコーラスグループである彼女たちをスターに仕上げようとする。そして今度も毒気を抜くために、リードボーカルを個性的で情熱に満ちたエフィーから、没個性的なかわいこちゃんであるディーナに変えてしまう。

よく人は「夢をかなえるためならなんでもする」という。しかし実際には、その「なんでも」の幅は実はそんなに広くない。この映画の登場人物も色々なものを捨て去ることを要求され、思い悩む。彼女たちもスターになることを夢見て、なんでもすると最初は考えていたはずだが、そんなに単純なものではないと気づく。唯一人マネージャのカーティスだけが、ぶれることなく夢に向かって突き進んでいく。あらゆるものを切り捨てながら。

彼のことを金と欲に目のくらんだクズ野郎と決め付け否定するのは簡単だ。だが常に大衆に受けることだけを考え続ける彼のやり方は全て間違っているのだろうか。確かに汚い手口や無法なこともしているが、彼の作り出す音楽に大衆は賞賛し、金を払い続ける。大衆に受け入れられ、楽しみを与えているのは間違いない。ラストシーンのあと、彼も少しは変化するのだろうか。

原作がミュージカルということで、いくつか重要なシーンでミュージカル仕立てになる。全編を通して音楽に満ち溢れているので、登場人物が歌いだしてもさして気にならない。カーティスに操られ、甘く心地よいメロディーを奏でるディーナと、彼に反発して心の叫びを歌にするジェームズ、エフィーの歌が次々と流れる。どちらも素晴らしい出来である。

エフィー役のジェニファー・ハドソンがアカデミー助演女優賞を獲得したのは納得がいかない。主演女優賞の間違いではないか。存在感も歌唱力も文句のつけようがない。

その分、ディーナ役のビヨンセ・ノウルズは損な役回りである。当然観客はエフィーに肩入れしてしまい、完全敵役であるカーティスのいい子ちゃんとして目立っても損、目立たなくても損という役どころ。そんな抑えつけられた鬱憤を晴らすがごとく熱唱する Listen は見せ場。それまでカーティスにより封印させられてきた個性と情熱を爆発させる。いずれにせよ、ステージでのシーンはどれも色気の満ちた素晴らしいものである。

ジェームズ役のエディ・マーフィー。依然としてハリウッドで主役を張れる大看板でありながら、今回は脇役として味のある演技と濃厚なステージを見せてくれる。前半、彼が出てくると本当に楽しい気分になる。昔ながらのお調子者のエディだ。それだけに切り捨てられる存在としての彼を見るのはエフィーを見る以上につらい。そんな難しい役どころを気負いなく演じている。

YouTubeで、原作となったミュージカルバージョンでジェニファー・ホリデーの歌を聴くことが出来る。さすがのジェニファー・ハドソンの歌もこちらにはかなわない。

テーマ:ドリームガールズ - ジャンル:映画

「負けるが勝ち」の生き残り戦略 -なぜ自分のことばかり考えるやつは滅びるか
地球上の生物が自らが不利な状況に追い込まれるような、一見不可解な行動をとることがあるが、実はそれこそ「個」ではなく「種」として生き残るための戦略である。



「負けるが勝ち」の生き残り
戦略―なぜ自分のことばかり
考えるやつは滅びるか
  • 著:泰中啓一
  • 出版社:KKベストセラーズ
  • 定価:714円
livedoor BOOKS
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「負けるが勝ち」の生き残り戦略―
なぜ自分のことばかり考えるやつは滅びるか

泰中啓一
KKベストセラーズ(2006)

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この本は地球上の生態系が地球環境からもたらされる必然であるということを再認識させてくれる。つまり、今この世界に住まう全ての生き物は生き残る理由があって存在しており、生き物自体も環境の一部である。従ってある生き物に大きな影響を与えるということは環境自体が変化することに他ならず、当然環境が変化すれば他の生き物も影響を受ける。

そのことを考えれば、長い目で見て生存競争と呼ばれるものに勝者がいないというのは明らかであろう。食べるものと食べられるものがいるときに、食べるものが圧倒的な力と数を手に入れたら、あっという間に食べつくしてしまい、その後に来るのは自らの死のみである。つまりこの地球上に生きるものは自分のことだけを考えていては生き延びることはできない。もっといえば自分のことだけではなくバランスをとることができるものだけが生き残っている。

著者はこの当たり前ではあるが、短期的な勝ち負けに目がくらんでなかなかわかっていても気づこうとしない真実をいくつもの例をあげながら説明していく。

昔からゲーム理論の中のいくつかの例題で、社会、すなわち一人だけではなく皆で生きていく世界においては一人だけが勝っても世の中はよくならず、むしろ勝った本人も含めて長い目で見ると不幸になるというものがある。この正直さとかストイックさとかが要求される戦略が実に多くの生物がとっている戦略であり、短期的には不利になる一見不可解なこの戦略が長期的な繁栄には如何に重要かということに気づかされる。

このような論調を展開していると、ともすると愛国心という名の下に自己犠牲を強いる論調になりがちであるが、そのような感情的なアジテーションに走ることなく、しかしさらっと自己中心主義が如何に自然な摂理に反して長続きしないかを説く語り口に共感を覚える。昨今、に限らないが、愛国心を声高に叫ぶ人の多くは同じ種の一員としてよりよい世界を目指すのではなく、同じ種の自己犠牲を喰らって自分だけが太る捕食者である場合が多い。

ところでこの本の最初の一文、「情けは人のためならず」というのがこの本のテーマを端的に表しているわけだが、この慣用句、結構誤解している人が多い。「情けをかけてしまうと、その人は甘えてしまうので、結局その人のためにならない、だから情けはかけないほうが良い」と思っている人が多い。偉そうに言っているが私もそうであった。だがこれでは訳がわからない。実際には「情けをかけるというのは、その人のためだけになるのではなく、回りまわって自分の利益に繋がるので、自分のためと思ってどんどん人に情けをかけましょう」というのが本来の意味。あまり誤用とかにうるさく言うのは好きではないし、どんどん誤用して言葉を乱していけばいいと思うのだが、本来の意味を知っていながら崩していくほうが奥行きも出ようというもの。

どうも硬い文章になってしまったが、気軽に読める内容と分量。技術者としての悪い癖でさしたる必然性もなく数式(というほどのものでもないのだが)がちょっとだけ出てきて敬遠しがちであるが、いいたいことはごく単純なことなので、式は読み飛ばしてもいい。


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本が好き!:私が「ヴィジュアル系」だった頃。



私が「ヴィジュアル系」だった頃。

市川 哲史
竹書房(2005)

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音楽に限らずであるが、人はアーティストをジャンル分けしたがる。アーティスト側としては甘んじて受け入れる人と、ジャンルという枠でひとくくりにされるのを嫌う人に分かれる。どちらかというと後者が多いだろう。ジャンル分けにはワンパターン、没オリジナリティといったネガティブな雰囲気も漂う。「ジャンルというのは聞く人が決めることであって、私としては特に自分の音楽はこのジャンルという意識はないです。」あたりが大人の回答であろうか。

しかし、「ヴィジュアル系」となると少々話が違ってくる。そう呼ぶなと明確に拒絶する人も多い。それはそうであろう。音楽的にどのジャンルであろうが音楽であることに変わりはない。しかし、「ヴィジュアル系」。そもそも音楽かんけーねーじゃん、みてくれだけかよ、という語感。音楽で勝負だ、という人にはなかなか受け入れられない言葉であろう。

そもそも定義がよくわからない。どうも化粧をして派手な服を着ているだけではだめらしい。古くはデビット・ボウイから、JAPAN、YMO、忌野清志郎、BOØWY、そしてバンドブームなる時代にポコポコ沸いて出た派手なグループとか。これってヴィジュアル系?

この本を読んだ結果、私の中での定義は 「ヴィジュアル系とは X の巻き起こしたムーブメント及びその余波」となった。BUCK-TICK はどうなんだ、COLOR はどうしてくれる、とか言われるかもしれないが、この本を読んだ限りではこうなる。たまたまなのか著者が意識してなのかはわからないが、正確ではなくとも誤りでもないであろう。この本の続編である「私もヴィジュアル系だったころ」の人選を見てもそういう雰囲気である。せっかくだから次回読もう。

基本的には対談集である。対談相手はちゃんと話ができるレベルのアーティスト及び編集者ばかりなので、対談とはいえ破綻することなく言いたいこと、あるいは著者が言わせたいことが伝わってくる。

最初は大槻ケンヂ。彼がヴィジュアル系の当事者なのか傍観者なのかは難しいところで、対談全編を通してこの話がネタとして出てくる。それはともかく、大槻ケンヂはやはり頭の回転が速く、弁が立つ。エッセイ、小説なども手がけるだけあって、口から出てくる言葉や展開も小気味よい。この業界ではデーモン小暮と双璧であろう。テレビですっかり文化人となっているのもさもありなんである。色物ヴィジュアル系、実は頭脳派文化人というところか。ROLLY もいれるべきか。

次が核心、X の YOSHIKI。いかにして音楽業界を切り裂いて自分たちの帝国を作っていったか。そして数々の破天荒なエピソードがちりばめられている。断片的に伝説は聞いていたが、本人の口から出た言葉として読むとなかなかのものである。しかし、この章に関しては著者がリードしてあんなこともあった、こんなこともあった、とぶつけてくるのに対して、「ああ、そうだねえ」と流している印象を受ける。過去のことは過去のことで興味がないのか、著者を信頼して展開をゆだねているのか。もちろん著者は YOSHIKI の起こしたムーブメントをリアルタイムで、しかもすぐ横から見ていたわけで、著者の総括に口を挟む必要はないのであろうが。

そして直系の子分 LUNA SEA の SUGIZO、注意深く避けて通ってきた PIERROT のキリトと続く。どちらの話も面白いし、自分の思いが詰まった言葉がストレートに出てくる。特に SUGIZO は可哀想だ。私ら外野は「河村隆一キモッ」とか言ってればよかったが、そうも言えず、てめーふざけんな光線を行間に漂わせつつ、御行儀良く対談に臨んでいる。いやあバンドというのはつくづく難しいものだ。

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テーマ:読んだ本。 - ジャンル:本・雑誌

極限状況物
「ボーン・マン」の紹介の中で、「極限状況物」という言葉を使った。あまり一般的な用語とも思えないが、普通の社会システムとは異なる環境、ルール、人物に囲まれた状況を舞台とした物語、といった意味で勝手に使っている。

例を挙げるなら監獄、戦時下・内戦下、未開の地、などがあげられる。本格ミステリでよく出てくる外界遮断物、例えば列車や船の中、吹雪で閉じ込められた山荘とかいうのもこのカテゴリといえなくもないが、あくまで一時的なものであり、また密室を構成するための小道具として用いられる場合が多く、あまり緊迫感はない。

日々生きていくこと自体が大変で、そこで人が一人殺されようがどうしようが、そんなの日常でしょ、という状況の中でちまちまと犯人探しをしないといけないというものが極限状況物である。事件の解決など基本的には空しい作業であり、設定も結末も空しいものが多い。むしろその過程の中で極限状況を描きこむことが大きな柱になっている。そういう意味では前述の「ボーン・マン」は一時的極限状況でまだ救いがある。

極限状況物のわたし的極限は、フィリップ・カーのベルリン三部作、すなわち「偽りの街」「砕かれた夜」「ベルリン・レクイエム」だ。第二次世界大戦前後のベルリンが舞台となっており、第一作はヒトラー総統支配下でまさにベルリンオリンピックが開催されているさなかの強盗殺人、第二作はナチス支配が確立しユダヤ弾圧が激しさを増す中での連続殺人、そして第三作は敗戦後、西側諸国とソ連が占領地、そして世界の支配にしのぎを削る中での人狩り。第一作に至っては極限の中の極限、悪名高い収容所も舞台になる。この作家、以後も色々独特な作品を出している。「屍肉」はソビエト連邦崩壊後のマフィアが暗躍するサンクトペテルスブルグが舞台であり、これも結構極限状況である。

もうひとつあげるとしたら、デイヴィッド・リンジーの「狂気の果て」。ヒューストン警察のスチュワート・ヘイドンシリーズであるが、この作品では秘密警察とゲリラが暗躍するグアテマラを舞台にしており、刑事物というよりエスピオナージュ(スパイ物)。ヒューストンの静かな自宅とグアテマラの壮絶な状況が一瞬にして切り替わり、極限状態がいっそう引き立っている。

そして牢獄物。これは結構いろいろなものが出ているが、最近読み返したミッチェル・スミスの「ストーンシティ」は刑務所という全く別世界のようでいて、実社会をいびつに変形させて圧縮した世界を丹念に描いており秀逸である。あまりに精緻に突きつけられる描写はあまり晴れやかな気分にさせてくれるものとは言えず、万人向けではないかもしれないが、極限状況を味わうにはもってこいである。これは近日中に書こうと思う。

同じ牢獄物で環境は同じなのだが、花輪和一の「刑務所の中」はなんとものどか。これも本人の体験によるエッセイ?マンガなので単純には比較できないが、この二冊が同じジャンルというのはかなり無理がある。無法地帯と化し一瞬でも気を抜いたら生きていけない世界に生きる主人公を描く「ストーン・シティ」に対し、高度に管理され看守の言われるまま何も考えることなく菩薩化していく「刑務所の中」。これはこれで極限状況といえなくもないか。映画も山崎努がゆるゆるの熱演を見せていい味出してる。

テーマ:推理小説・ミステリー - ジャンル:本・雑誌

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