〜I'm a loser〜
本多 孝好
双葉社(2007)
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亮太は入学したての大学で、トラブルに巻き込まれているところを同級生のトモイチに助けられる。高校まで一貫していじめられっこで友達などいなかった亮太は、トモイチから「友達」と呼ばれてのぼせ上がってしまい、ふらふらと誘われるまま、とあるクラブに入会することになる。その名も「正義の味方研究部」。
このふざけた名前のクラブはヒーローを研究する会などではなく、文字通り自らが正義の味方となり、大学の人々の安全と幸福を守ることを目的とする、大真面目に正義の味方を実践するクラブであった。当然誰もが部員になれるわけではなく、なんらかの秀でた特技、いわば必殺技がないと部員として認められない。あるものは腕力、あるものは情報収集力、そしてあるものは不屈の精神力。トモイチは高校時代インターハイ3連覇という即戦力でスカウトされていたのだが、亮太の年季の入った殴られ方を見て、只者ではない動体視力と身体能力を見て取り、彼をクラブに誘ったのである。亮太はいじめっ子に殴られ続ける中で、どうしたら殴る側が納得がいき、これ以上殴ろうと思わず、しかも同時に自らのダメージを最小にする最良の殴られ方を自然と実践しており、そのためにはパンチから最後まで目をそらさず、思ったところにパンチをもらうという高等技術を体得していたのである。まさにマイナスパワーもきわまれり、といったところ。
無事入部を果たした亮太は個性的な先輩達とともに、大学における正義の味方としての活動をはじめ、大学にありがちなトラブルの解決に取り組む。そんな中、亮太とトモイチは、ある同好会への「潜入捜査」を命じられる。なにを捜査するのかは教えられないまま同好会へ入った亮太は、そこでぱっとしない先輩、間(はざま)とともにイベント企画をおこなうこととなる。派手なイベントを企画する他のグループと違って文化講演会を担当している間はイベント同様地味で目立たない存在であるが、亮太はそんな間に自分と似た匂いを感じる。
物事を深く考えない人々は幸せである。これがこの本を読み終わったときの最初の感想。亮太は生来の性格なのか、いじめられっこ大ベテランのキャリアからなのか、あらゆることを受け流すことができず、さまざまに思い悩む。トモイチと知り合い、正義の味方研究会に入会したことにより、高校までの暗く救いの無い日々が一転してクラスでも一目置かれることになり、恋の予感もする楽しいキャンパスライフになったというのに、単純に幸せに浸ることができず、周りの人々や出来事のことに思いをめぐらす。そして考える、これで自分はいいのかと。
こだわりを捨て、物分りの良い人になることが大人になることだとすれば、大人への入り口とも言える大学に入った途端に、それまでただトラブルから目を背け、亀のように首を引っ込めて嵐が過ぎるのを待っていた主人公が、納得行かないままの自分をほっておけず、みずからのこだわりを貫き通す信念の人になってしまった様は滑稽ともいえる。しかし、彼は感じているのだろう、自らあるべき姿への努力を始めた以上後戻りはできない、ここで思考停止してしまったらまたもとの木阿弥だということを。
いじめられっこが、かけがえの無い友人を得ることにより、いままでの自分を抜け出し、新しい可能性と希望に満ちた人間に生まれ変わる爽快なストーリを期待するなら読むのを止めておいたほうがよいだろう。あるいは半分くらいで読むのを止めるか。そこまでならこぶしだけで生きてきた野生の男であるが、それでいて古風な雰囲気を漂わすトモイチと、いじけた中にも自分をごまかせず器用になりきれない亮太が織り成す飾り気の無い友情は青春小説として心地よい。しかし、世の中そんなに単純ではない。考えることを止めない限りは。
今の世の中、多くの悪は絶対的な悪ではなく、それぞれの立場と弱さが織り成す相対的なものである以上、その対極である正義も、絶対的な正義としては存在し得ない。怪獣の吐く炎であろうがウルトラマンのスペシウム光線であろうが直撃されたら家は燃えるし、踏まれたら死んでしまう。そんな力なく逃げ惑う人が多数いるという現実から目を背けることができない亮太。明るい青春小説のさわやかさは無いが、立場や視点を変えて考えるということの大切さ、そしてしんどさ、つらさを教えてくれる小説である。
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このエントリーは書評ポータル「本が好き!」から頂いた本の書評です。
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